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世界の「ハコダテ」はトレンディの発信基地!
歴史イメージ 箱館港に初めて入港した外国船は、寛政5年(1793年)、交易を求めてやってきたロシアのエカテリーナ号でした。その後もイギリス船などの外国船出没騒ぎが続き、江戸幕府は北方警備のために享和2年(1802年)、箱館奉行を置きました。ここに箱館は蝦夷地の中心として栄え始めます。
 諸外国がアジアに手を広げだした時期でもあり、ロシアは自国軍艦や商船の寄港地として、アメリカは北太平洋捕鯨船の寄港地および対中国貿易品をストックする場として、日本の開港を望んだのです。
 嘉永7年(11月から安政元年)(1854年)、米国東インド艦隊司令長官ペリー提督との間で、ついに日米和親条約が締結され、わが国は箱館と下田の開港を約束、ペリー提督はその足で艦隊をひきつれて箱館の視察に訪れました。
 和親条約が締結された翌年から、外国船が盛んに箱館港に入港し始め、その後の米・蘭・露・英・仏との通商条約を経て、安政6年(1859年)には横浜、長崎とともに、日本初の国際貿易港として開港、世界の「ハコダテ」は大きく発展しました。往時の中心地、元町は異国情緒あふれる街並みを今に伝えています。
 また、外国人との交流も深まり、北海道初、日本初のもの(ストーブ、西洋料理店、気候測量所など)がたくさん誕生、”北の文明開化”の地、箱館はトレンディの発信基地でもありました。

 

「箱館戦争」勃発
 明治元年(1868年)、10月20日朝、旧幕臣・榎本武揚らは軍艦「開陽丸」以下7隻の艦隊を率い、鷲の木の浜に入った。旧幕府軍は総勢約3,000名、加えてフランス軍人が10名、6日後は五稜郭を無血占拠、旧幕臣のための蝦夷地開拓をアピールしました。
 翌年の5月11日、政府軍は箱館を海と陸から総攻撃し、18日にはついに旧幕府軍が降伏。開陽丸を蝦夷地に着いてまもなく暗礁に乗り上げて失ったことが敗戦を早めたとも。元新撰組副長・土方歳三もこの戦いで生涯を終えました。ここに封建時代は終焉を迎え、蝦夷は北海道に、箱館も函館と改められ、街は平静を取り戻したのです。
 この戦争での大海戦は、近代戦では初めてのものでした。
歴史イメージ
【土方歳三】

 

函館の盛衰を左右した北洋漁業
 幕末の頃から行われていた北方出漁は、日露戦争のために中止となっていましたが、明治40年(1907年)に日露漁業条約が結ばれて、北洋漁業は発展し始めました。
 大正10年(1921年)に創設された日魯漁業(株)は、世界最大の漁業会社といわれ、「嫁にやるなら日魯の社員」という言葉がうまれたほど。タラ延縄(はえなわ)や母船式カニ漁で北洋漁業は黄金時代を迎え、貿易は満州や欧州各国、アジアまでひろがりました。
 北洋の基地という栄光の座が奪われたのは、太平洋戦争の敗戦による漁場締め出し。昭和27年には戦前に比べてスケールは小さくなったものの再開されました。

 

激動期、歴史の流れを決した「五稜郭」
日本初の洋式城郭、箱館戦争の舞台 特別史跡五稜郭跡

歴史イメージ わが国最初の洋式城郭。五つの稜が星型に突き出ているため五稜郭の 名がある。幕府が北方防備のために弁天砲台(函館ドック付近)とともに安政4年(1857年)から7年がかりで築造しました。ヨーロッパの城を参考に蘭学者、武田斐三郎が設計。鉄砲など近代兵器に対処できるようプランを練りました。各稜に砲をおけば死角も少なく、砲火をあびせられるというわけです。
 奉行所がありましたが明治5年に取り壊し、現存しているのは兵糧庫と井戸のみ。
 日本最後の内戦「箱館戦争」の舞台となったところで、明治元年(1868年)、大政奉還に不満をもった旧幕臣・榎本武揚、大鳥圭介らがここを占拠し、翌年5月に降伏、開城しました。彼らが抱いた「蝦夷共和国」建設の夢ははかなく消えました。
 公園内の市立博物館分館には武器、衣服など関係資料を多数展示。
 現在は、桜の名所として知られ、幅30mの外堀には鯉が悠々と泳ぎ、貸しボートも人気があります。
 市電五稜郭公園下車、徒歩15分  公園の入口には五稜郭タワーがあり、地上約60mの展望台から、史跡五稜郭を俯瞰眺望することが出来ます。なお、1階展示ホールには、五稜星型文化が、どういう目的で生まれ、世界中にどのように伝播したかを紹介する資料が展示されています。

 

函館市ホームページの「函館観光情報」→「函館の歴史」で詳しくご覧いただくことができます。

 

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